最近、散々Twitterでつぶやいている、「京都クロスポイント」(→参考)を読んでのこと。(今回はレビューではない。本のレビューはまた後日書きます)
お題は、ライターの文章について、といったところか。
「京都クロスポイント」に載っている、フリーライターの高橋マキさんの文章を読んで思った。文章の「構成」とは、こういうことを言うのか、と。俺はこれまで、著書「ミソキョー」を始め、高橋マキさんの文章をよく読んで思ったのは、実は高橋マキさんは、文章がそんなに上手くないな、ということだった。
実際、高橋マキさん自身、「極端な話、文章はどうだっていい」と言っておられる。
ここで注目すべきは、「構成」である。いかに「どうでもいい」とは言っても、プロでライターを15年(約)。一定の水準のものは書かれてきたはずだ。ではやはり、俺の疑問とは裏腹に、プロだから文章は上手いのか。
その答えが、「構成」である。ライターの文章で、「構成」がしっかりしているというのは、当たり前の話で、何をいまさら、というものだが、逆を言えば、「構成」さえしっかりしていれば問題がないことから、「それだけ」になってしまったのではないか、ということである。
俺は仕事の先輩に、「○○くんは文章は上手いけど、構成が解ってない」と言われたことがあるが、実は文章にとって、「構成」とは最低限のもので、その上手い下手はもっと別の要素で決まるのではないか、と思うのである。
「京都クロスポイント」には、遊プロジェクト顧問である、映画監督の中島貞夫さんが寄稿されているのだが、その文章を読んで俺は唸った。実に深く、そして味のある文章だったのである。
別に俺は、「比較」をしているつもりはない。ただ、ここまでの話に俺の経験を交えて言わせてもらうと、良い文章、上手い文章を書くには、「文学的素養」が不可欠であると思えるのだ。ライターには、そんな「名文」は必要がないと言われるが、俺はやはり上手い文章を書きたいのである。
ノンフィクションライターの文章は、同じライターでも、文章が「別格」であると言われる。俺にとっては正直まだまだ未知の領域だが、ノンフィクションライターの文章が、果してどう上手いのか。その点これからが楽しみなのである…(笑)




