2010 年 6 月 のアーカイブ

[レビュー]高嶋加代子著、京都クロスポイント

2010 年 6 月 23 日 水曜日

京都クロスポイント

先日、大垣書店四条店に積み上げられる「京都クロスポイント」を確認してきた。今、アマゾンで見たところ、ちゃんと購入できるようで少し安心(笑)

さて。この「京都クロスポイント」、何がスゴイかって、今この時点で、自費出版にしろこの企画が世に出たことが、もうそれだけで画期的なことだ。おそらく単行本初の、京のNPOを紹介した書籍。俺に言わせれば、この際内容その他の出来は問題ではない。

その上でレビュー。

紹介されているNPO(任意団体含む)は、著者(正確には共同執筆なので監修者)の高嶋加代子さんが代表を務める、NPO法人遊プロジェクト京都で定期的に行われてきた、「まちづくり研究会」に講師としてこられた方の団体。

思いっきり高嶋さんの人脈!

元々、遊子庵は、人と人との交流の場。俺自身もここで数々の人たちと出会った。で、「京都クロスポイント」。最後の締めにも書かれているが、この本自体がその「交流」のコンセプトをしっかりと受け継いでいるところがスゴイ。実に高嶋さんらしい著書だ。

この本を全て読んで気付いた。ああ、俺もまた、この本を通して、紹介されている人たちとつながったんだ、と。そう、ここがいわゆる「市民活動」の素晴らしいところ。自らが動けば、いくらでもつながって行くことができるのだ。

市民活動、とりわけNPOに至っては、まだまだ「怪しいもの」といった誤解が多い。実際に、NPOを語る団体の悪行などが起こっており、非常に残念ではあるが、仕方のないところもある。しかし、ここに紹介されているNPOを見て欲しい。それぞれに純粋な動機を持って活動している団体であり、その活動にきっと目が開かれるはずである。

京都発、市民活動の姿をぜひ!

だから俺は「ライター」なのだ

2010 年 6 月 18 日 金曜日

NPO法人おふぃすパワーアップで編集の仕事をしながらも、俺は相も変わらず「ライター」としての日々の活動を続けている。一方で、ノンフィクションも進めないといけないのだが、それはひとまず横に置いて。

16日、水曜日、京都商工会議所で行われた「京都本おもしろ講座」では、京都リビング新聞社の山舗編集長、ほんぬの中井忍さんとお話する機会を得た。その前日には、安彦さんと、書家の川尾朋子さんのコラボ展に招かれて行った。(一応、個人的に案内を頂いたので)。

こうして日々続ける、ライター活動が直接仕事に結び付いたということは、残念ながら一度も無い。それでも続けるのは、おそらくこの「努力(習慣)」が、ライターとしての矜持だから。それに、こうして作ったネットワークは、実際将来の仕事に大きく関わってくるものなのである。

俺は一体何がしたいんだろう。フリーで仕事をしていると、常にそういった根本的なところに心が向かう。本当に書くことがしたいのだろうか、などと。しかし、そんな心とは裏腹に、そう、まるで義務感で動いているように、気が付いたら日々の活動にいそしんでいる。

ライターって何だろう。職業って何だろう。そんな思いを胸に、俺は今日も活動を続ける。そう、まるで「義務」のように…。

何か少し感傷的だね(笑)。でも、答えはもう出てるんだ。とっくの昔に。俺がこうして日々活動を続けるのは、俺にはこれしかできないから。仕事とはきっと、誰にとってもそういうものなのではないか、そう思う。だから俺は「ライター」なのである…(笑)

ライターと編集者の「職業的」違い

2010 年 6 月 14 日 月曜日

この度、おふぃすパワーアップに関わるに当たって、仕事の先輩が、本を貸してくれた。この先輩、決してライターではないのだが、昔に、(おそらく文芸書関連の)編集の仕事をされていたことがあり、借りた2冊は、先輩が当時学ばれたものだと思う。

編集者というのは凄いんだなあ。おふぃすパワーアップで編集の仕事を学ぶに連れて、ライターのくせにそんなことを思った。

文章は書けて当たり前。

NPO法人おふぃすパワーアップの代表、丸橋泰子編集長は、そう言われた。確かに、ライターが書いた文章に赤入れをする編集者は、ある意味文章が書けて当然なのだ。それでいて、企画も考え、取材もする。まさに万能。ライターである俺などは、どう太刀打ちすれば良いのか。

逆の立場から見よう。ライターの側から。

一般にライターは、編集の知識も持っていた方が良いと言われる。だが、多くの先輩ライターは、ライター初心者(あるいは目指す人)に、出版編集社に入ることは薦めない。これは編集者も同じで、仕事を頼むライターに、編集者としての経験は求めない。

出版編集社というのは、「色」があるから。100あれば、100の出版編集社が、それぞれのやり方で、編集の仕事をするのである。つまり、もしもこれから仕事を頼もうと思っているライターに、別の出版編集社での編集経験があったら、それは、この出版編集社にとっては、邪魔以外の何ものでもないのである。

そう考えると、編集者は組織として働き、ライターは個人として働く。全く別物と見て良いだろう。そしてどちらの「職業」を選ぶかは、その人次第なのである(当たり前か)。

今回、おふぃすパワーアップという「出版編集社」に関わることになって、改めて気を付けなければならないと思った。話を戻せば、俺はやはりライターなので、先輩に借りた本も活用して、「ライターの仕事」を磨いて行きたいと思う。

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ノンフィクションにおける「天才」の使命

2010 年 6 月 10 日 木曜日

かつて吉行淳之介は、身近に殺人者がいたり、妹が娼婦をしていたりする書き手のことを、逆説的に「サラブレッド」と呼んだという。

「原体験」というのかな、ノンフィクションを書き続けるには、自分の中に、書き続ける「理由」が必要だと教科書にも書かれている。

「理由」を前提とするモチベーションの維持は、正直非常に難しい。誰もが「サラブレッド」でない限り、「理由」は自分で見出したものでなければならないし、それが弱いものだと、取材を続けるモチベーションが維持できなくなる。

今、神戸の震災を取材していて、その遅々とした進み具合に、俺は何度も原点の「理由」に立ち返ってみる。そんなに弱いものではないはずなのだが…。

何が言いたいか。

最近「サラブレッド」の人が、どんどん前に進むのを見ていて驚いた。モチベーションのその強さに。そして思った。「使命」というものは、本当にあるものだな、と。

昨日の話ではないが、「サラブレッド」の人は実に盲目に見える。一途だと言えば聞こえは良いが、その行動は、方向転換が不可能で、その強いモチベーションゆえに、悩むことも知らない。これはもう、何かに憑かれているようであり、まさに「使命」だろう。

要するに諸刃の剣なのだ。吉行淳之介が呼んだ「サラブレッド」たちは、自らのモチベーションという、環境の産物から抜け出すことができず、でも一方で、「成功」を手にする。

一人の悩める人間でありたい。

そう願った時、俺は、「サラブレッド」でなくて良かったと思える。ノンフィクションの外のことまで言ってみれば、それは「天才」でないということなのかもしれない。

最後に、俺の好きなこの言葉を挙げて、この文章の締めとしよう。

「一芸に秀でた者に人格者は少ない」(吉本隆明)

ようやっと雑誌ライター

2010 年 6 月 9 日 水曜日

雑誌の仕事をやることになった。今まで、新聞記事などは書くことがあっても、いわゆる雑誌ライター的なことはしたことがなかった。俺の専門は、基本ノンフィクション。自分一人でコツコツと取材を続けるというものだ。売れっ子になれば、雑誌の仕事もあるだろうが、俺はまだ「作品」を仕上げていない。

今回も別に、特に大したことをしたワケではない。企画を持って売り込んだワケでもないし。

「溜め」が出た感じ?これまで結果もないのに一人黙々と努力してきて、正確には7年の歳月、「不遇」の時代を過ごしてきて、それでもその時にできることを一生懸命「諦めずに」続けてきて、ここにきてコップの水が溢れた感じ。

具体的には某NPOでの書籍編集の仕事に、「ライター」として関わることになったのだが、大した実績もない、ソフトも使えない俺が、その前に営業に来たという、実績バリバリの雑誌ライターさん(3人!)が得られなかった仕事を得ることができたのは、ひとえにこれまでの、子どもに関する活動が評価されてのこと。

実に俺らしい…(笑)

世に雑誌ライターはごまんといるが、明確に意図してその仕事を得るのは、それほど難しいことだということを知って欲しい。

もちろん成り行きで、気が付いたら、という人もいるだろう。(実際はコチラの方が多いと思う)。しかし、「仕事」として言わせてもらうなら、「成り行き」は盲目だ。それで成功しても、誰でもないその人本人にとって、なんら意味を成さない。それでは「幸せ」になれない。

とても大切なことに踏み込んでいるね。だけど俺は、これ以上は語らない。それは全ての人が、一歩一歩悩みながら人生を生きる中で、自分なりの考えを見出していく「義務」であるから。そして、その先に「幸せ」はあると俺は信じる。

文章の「構成」ということ

2010 年 6 月 2 日 水曜日

最近、散々Twitterでつぶやいている、「京都クロスポイント」(→参考)を読んでのこと。(今回はレビューではない。本のレビューはまた後日書きます)

お題は、ライターの文章について、といったところか。

「京都クロスポイント」に載っている、フリーライターの高橋マキさんの文章を読んで思った。文章の「構成」とは、こういうことを言うのか、と。俺はこれまで、著書「ミソキョー」を始め、高橋マキさんの文章をよく読んで思ったのは、実は高橋マキさんは、文章がそんなに上手くないな、ということだった。

実際、高橋マキさん自身、「極端な話、文章はどうだっていい」と言っておられる。

ここで注目すべきは、「構成」である。いかに「どうでもいい」とは言っても、プロでライターを15年(約)。一定の水準のものは書かれてきたはずだ。ではやはり、俺の疑問とは裏腹に、プロだから文章は上手いのか。

その答えが、「構成」である。ライターの文章で、「構成」がしっかりしているというのは、当たり前の話で、何をいまさら、というものだが、逆を言えば、「構成」さえしっかりしていれば問題がないことから、「それだけ」になってしまったのではないか、ということである。

俺は仕事の先輩に、「○○くんは文章は上手いけど、構成が解ってない」と言われたことがあるが、実は文章にとって、「構成」とは最低限のもので、その上手い下手はもっと別の要素で決まるのではないか、と思うのである。

「京都クロスポイント」には、遊プロジェクト顧問である、映画監督の中島貞夫さんが寄稿されているのだが、その文章を読んで俺は唸った。実に深く、そして味のある文章だったのである。

別に俺は、「比較」をしているつもりはない。ただ、ここまでの話に俺の経験を交えて言わせてもらうと、良い文章、上手い文章を書くには、「文学的素養」が不可欠であると思えるのだ。ライターには、そんな「名文」は必要がないと言われるが、俺はやはり上手い文章を書きたいのである。

ノンフィクションライターの文章は、同じライターでも、文章が「別格」であると言われる。俺にとっては正直まだまだ未知の領域だが、ノンフィクションライターの文章が、果してどう上手いのか。その点これからが楽しみなのである…(笑)