2010 年 7 月 17 日
つながりでイメージするのは何だろう。例えば人と人とのつながり、経験と経験との交わり。
かつては俺も、京都にある子育て支援の団体をつなげたいと考えていたことがあった。学生時代からそれらに関わってきた自分としては、京都には素晴らしい活動を行っている団体が多く存在することを知っていたし、そしてそのほとんどが、団体内の活動にのみ熱心で、自己完結してしまっていることを残念にも感じていた。
しかし、である。京都きっずプロジェクトの行っている、団体をつなげるという活動は、もったいないを動機とする俺の思いとはまた違ったところに端を発する。代表の迫さんいわく、「自分たちの地域の団体をより良くするにはね、京都にある全部の団体が良くならないと駄目だとわかったのよ」。
一人はみんなのために、みんなは一人のために。小学校で何度も復唱させられた言葉を思い出した。
京都きっずプロジェクトは、当時同じ思いを持っていた団体がつながることで生まれた。それからの活動の中では、つながりを意識するあまり自分の地域の団体の活動が疎かになってしまっているのではないかと、それぞれの活動に戻って行った時期もあったという。しかし結果として、つながりがあるからこそ地域の団体も活性化していたことがわかったのだ。
京都きっずプロジェクトはいつなくなってもいい、と迫さん。それは、団体であることにはこだわっていないということ。だからその一方で、つながり、出会うことの大切さを強調される。
団体同士が出会うことで京都全体のレベルが上がる。「出会い」がつながりをつくることなのだと強く感じたのだった。
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2010 年 7 月 2 日
時期尚早である。時期尚早かもしれない。
「このままじゃ使われるだけの人間になっちゃうよ」。ウチの理事長の言葉。
使われるだけの人間…。
焦りがないとは言わない。言われたら不安にもなる。しかし、どこか違和感もある。
仕事の「姿勢」が違う人がいることは、気付いていた。突き詰めると、それは「自分への厳しさ」なのだろうと思った。
自分はどうなりたいのか。
仕事ができることが絶対だというのは、間違っている。
俺は、感じた違和感を大切にしながら、焦りや不安に煽られることなく、自分の道を模索して行きたいと思った。
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2010 年 6 月 23 日

先日、大垣書店四条店に積み上げられる「京都クロスポイント
」を確認してきた。今、アマゾンで見たところ、ちゃんと購入できるようで少し安心(笑)
さて。この「京都クロスポイント」、何がスゴイかって、今この時点で、自費出版にしろこの企画が世に出たことが、もうそれだけで画期的なことだ。おそらく単行本初の、京のNPOを紹介した書籍。俺に言わせれば、この際内容その他の出来は問題ではない。
その上でレビュー。
紹介されているNPO(任意団体含む)は、著者(正確には共同執筆なので監修者)の高嶋加代子さんが代表を務める、NPO法人遊プロジェクト京都で定期的に行われてきた、「まちづくり研究会」に講師としてこられた方の団体。
思いっきり高嶋さんの人脈!
元々、遊子庵は、人と人との交流の場。俺自身もここで数々の人たちと出会った。で、「京都クロスポイント」。最後の締めにも書かれているが、この本自体がその「交流」のコンセプトをしっかりと受け継いでいるところがスゴイ。実に高嶋さんらしい著書だ。
この本を全て読んで気付いた。ああ、俺もまた、この本を通して、紹介されている人たちとつながったんだ、と。そう、ここがいわゆる「市民活動」の素晴らしいところ。自らが動けば、いくらでもつながって行くことができるのだ。
市民活動、とりわけNPOに至っては、まだまだ「怪しいもの」といった誤解が多い。実際に、NPOを語る団体の悪行などが起こっており、非常に残念ではあるが、仕方のないところもある。しかし、ここに紹介されているNPOを見て欲しい。それぞれに純粋な動機を持って活動している団体であり、その活動にきっと目が開かれるはずである。
京都発、市民活動の姿をぜひ!
タグ: 高嶋加代子
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2010 年 6 月 18 日
NPO法人おふぃすパワーアップで編集の仕事をしながらも、俺は相も変わらず「ライター」としての日々の活動を続けている。一方で、ノンフィクションも進めないといけないのだが、それはひとまず横に置いて。
16日、水曜日、京都商工会議所で行われた「京都本おもしろ講座」では、京都リビング新聞社の山舗編集長、ほんぬの中井忍さんとお話する機会を得た。その前日には、安彦さんと、書家の川尾朋子さんのコラボ展に招かれて行った。(一応、個人的に案内を頂いたので)。
こうして日々続ける、ライター活動が直接仕事に結び付いたということは、残念ながら一度も無い。それでも続けるのは、おそらくこの「努力(習慣)」が、ライターとしての矜持だから。それに、こうして作ったネットワークは、実際将来の仕事に大きく関わってくるものなのである。
俺は一体何がしたいんだろう。フリーで仕事をしていると、常にそういった根本的なところに心が向かう。本当に書くことがしたいのだろうか、などと。しかし、そんな心とは裏腹に、そう、まるで義務感で動いているように、気が付いたら日々の活動にいそしんでいる。
ライターって何だろう。職業って何だろう。そんな思いを胸に、俺は今日も活動を続ける。そう、まるで「義務」のように…。
何か少し感傷的だね(笑)。でも、答えはもう出てるんだ。とっくの昔に。俺がこうして日々活動を続けるのは、俺にはこれしかできないから。仕事とはきっと、誰にとってもそういうものなのではないか、そう思う。だから俺は「ライター」なのである…(笑)
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2010 年 6 月 14 日
この度、おふぃすパワーアップに関わるに当たって、仕事の先輩が、本を貸してくれた。この先輩、決してライターではないのだが、昔に、(おそらく文芸書関連の)編集の仕事をされていたことがあり、借りた2冊は、先輩が当時学ばれたものだと思う。
編集者というのは凄いんだなあ。おふぃすパワーアップで編集の仕事を学ぶに連れて、ライターのくせにそんなことを思った。
文章は書けて当たり前。
NPO法人おふぃすパワーアップの代表、丸橋泰子編集長は、そう言われた。確かに、ライターが書いた文章に赤入れをする編集者は、ある意味文章が書けて当然なのだ。それでいて、企画も考え、取材もする。まさに万能。ライターである俺などは、どう太刀打ちすれば良いのか。
逆の立場から見よう。ライターの側から。
一般にライターは、編集の知識も持っていた方が良いと言われる。だが、多くの先輩ライターは、ライター初心者(あるいは目指す人)に、出版編集社に入ることは薦めない。これは編集者も同じで、仕事を頼むライターに、編集者としての経験は求めない。
出版編集社というのは、「色」があるから。100あれば、100の出版編集社が、それぞれのやり方で、編集の仕事をするのである。つまり、もしもこれから仕事を頼もうと思っているライターに、別の出版編集社での編集経験があったら、それは、この出版編集社にとっては、邪魔以外の何ものでもないのである。
そう考えると、編集者は組織として働き、ライターは個人として働く。全く別物と見て良いだろう。そしてどちらの「職業」を選ぶかは、その人次第なのである(当たり前か)。
今回、おふぃすパワーアップという「出版編集社」に関わることになって、改めて気を付けなければならないと思った。話を戻せば、俺はやはりライターなので、先輩に借りた本も活用して、「ライターの仕事」を磨いて行きたいと思う。
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2010 年 6 月 10 日
かつて吉行淳之介は、身近に殺人者がいたり、妹が娼婦をしていたりする書き手のことを、逆説的に「サラブレッド」と呼んだという。
「原体験」というのかな、ノンフィクションを書き続けるには、自分の中に、書き続ける「理由」が必要だと教科書
にも書かれている。
「理由」を前提とするモチベーションの維持は、正直非常に難しい。誰もが「サラブレッド」でない限り、「理由」は自分で見出したものでなければならないし、それが弱いものだと、取材を続けるモチベーションが維持できなくなる。
今、神戸の震災を取材していて、その遅々とした進み具合に、俺は何度も原点の「理由」に立ち返ってみる。そんなに弱いものではないはずなのだが…。
何が言いたいか。
最近「サラブレッド」の人が、どんどん前に進むのを見ていて驚いた。モチベーションのその強さに。そして思った。「使命」というものは、本当にあるものだな、と。
昨日の話ではないが、「サラブレッド」の人は実に盲目に見える。一途だと言えば聞こえは良いが、その行動は、方向転換が不可能で、その強いモチベーションゆえに、悩むことも知らない。これはもう、何かに憑かれているようであり、まさに「使命」だろう。
要するに諸刃の剣なのだ。吉行淳之介が呼んだ「サラブレッド」たちは、自らのモチベーションという、環境の産物から抜け出すことができず、でも一方で、「成功」を手にする。
一人の悩める人間でありたい。
そう願った時、俺は、「サラブレッド」でなくて良かったと思える。ノンフィクションの外のことまで言ってみれば、それは「天才」でないということなのかもしれない。
最後に、俺の好きなこの言葉を挙げて、この文章の締めとしよう。
「一芸に秀でた者に人格者は少ない」(吉本隆明)
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2010 年 6 月 9 日
雑誌の仕事をやることになった。今まで、新聞記事などは書くことがあっても、いわゆる雑誌ライター的なことはしたことがなかった。俺の専門は、基本ノンフィクション。自分一人でコツコツと取材を続けるというものだ。売れっ子になれば、雑誌の仕事もあるだろうが、俺はまだ「作品」を仕上げていない。
今回も別に、特に大したことをしたワケではない。企画を持って売り込んだワケでもないし。
「溜め」が出た感じ?これまで結果もないのに一人黙々と努力してきて、正確には7年の歳月、「不遇」の時代を過ごしてきて、それでもその時にできることを一生懸命「諦めずに」続けてきて、ここにきてコップの水が溢れた感じ。
具体的には某NPOでの書籍編集の仕事に、「ライター」として関わることになったのだが、大した実績もない、ソフトも使えない俺が、その前に営業に来たという、実績バリバリの雑誌ライターさん(3人!)が得られなかった仕事を得ることができたのは、ひとえにこれまでの、子どもに関する活動が評価されてのこと。
実に俺らしい…(笑)
世に雑誌ライターはごまんといるが、明確に意図してその仕事を得るのは、それほど難しいことだということを知って欲しい。
もちろん成り行きで、気が付いたら、という人もいるだろう。(実際はコチラの方が多いと思う)。しかし、「仕事」として言わせてもらうなら、「成り行き」は盲目だ。それで成功しても、誰でもないその人本人にとって、なんら意味を成さない。それでは「幸せ」になれない。
とても大切なことに踏み込んでいるね。だけど俺は、これ以上は語らない。それは全ての人が、一歩一歩悩みながら人生を生きる中で、自分なりの考えを見出していく「義務」であるから。そして、その先に「幸せ」はあると俺は信じる。
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2010 年 6 月 2 日
最近、散々Twitterでつぶやいている、「京都クロスポイント」(→参考)を読んでのこと。(今回はレビューではない。本のレビューはまた後日書きます)
お題は、ライターの文章について、といったところか。
「京都クロスポイント」に載っている、フリーライターの高橋マキさんの文章を読んで思った。文章の「構成」とは、こういうことを言うのか、と。俺はこれまで、著書「ミソキョー
」を始め、高橋マキさんの文章をよく読んで思ったのは、実は高橋マキさんは、文章がそんなに上手くないな、ということだった。
実際、高橋マキさん自身、「極端な話、文章はどうだっていい」と言っておられる。
ここで注目すべきは、「構成」である。いかに「どうでもいい」とは言っても、プロでライターを15年(約)。一定の水準のものは書かれてきたはずだ。ではやはり、俺の疑問とは裏腹に、プロだから文章は上手いのか。
その答えが、「構成」である。ライターの文章で、「構成」がしっかりしているというのは、当たり前の話で、何をいまさら、というものだが、逆を言えば、「構成」さえしっかりしていれば問題がないことから、「それだけ」になってしまったのではないか、ということである。
俺は仕事の先輩に、「○○くんは文章は上手いけど、構成が解ってない」と言われたことがあるが、実は文章にとって、「構成」とは最低限のもので、その上手い下手はもっと別の要素で決まるのではないか、と思うのである。
「京都クロスポイント」には、遊プロジェクト顧問である、映画監督の中島貞夫さんが寄稿されているのだが、その文章を読んで俺は唸った。実に深く、そして味のある文章だったのである。
別に俺は、「比較」をしているつもりはない。ただ、ここまでの話に俺の経験を交えて言わせてもらうと、良い文章、上手い文章を書くには、「文学的素養」が不可欠であると思えるのだ。ライターには、そんな「名文」は必要がないと言われるが、俺はやはり上手い文章を書きたいのである。
ノンフィクションライターの文章は、同じライターでも、文章が「別格」であると言われる。俺にとっては正直まだまだ未知の領域だが、ノンフィクションライターの文章が、果してどう上手いのか。その点これからが楽しみなのである…(笑)
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2010 年 5 月 25 日
小説を書き始めた。別にこれと言ってどうということはないのだが、おそらく俺の才能の根幹を成している、「文学」というものを再開したということについては、大げさではなく、 心躍る思いである。
25歳で、物を書く道に進もうと決めた時、最初に、自然に身近にあったのは、言うまでもなく、「小説家」への道だった。それから丸々一年、俺は何もせずにひたすら小説を書く日々を送った。
良い仕事は、「手」を使うものである。言わずもがなか俺は、原稿用紙こそ使わなかったものの、「手書き」で小説を書き始めた。今の時代に珍しいことに。
俺の仕事が、今、ノンフィクションを書くことになっているのは、ただ単純に、興味の範囲が遷移したことだけではない。ワープロで打つのはどうなのか知らないけれども、「手書き」は肉体労働だ。(本来、何かを生み出すのには、莫大なエネルギーが必要なものだが)。
「肉体労働」で小説家が特別に悩まされるのが胃潰瘍だ。かの夏目漱石も、これに悩まされた挙句に、これが原因で命取りとなっている。
例外なくして、俺もすぐに薬が必要となった。「胃」である。俺は特に弱かったらしい。小説を書くことが、(薬を飲んでも)一週間の継続ももたないと解った時、俺は限界を感じた。俺には才能はないと悟った…。
今、書き始めた小説は、言わば週に一回の「趣味」である。しかし、ここまできてなお未練がましいようだが、「胃」さえ大丈夫なら、俺には小説家の才能があったと思う。
小説を書く時はいつもワクワクする。小説は俺の「夢」なのである…(笑)
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2010 年 5 月 16 日

今日は、左京区の子どもの本専門店「きんだあらんど」で開かれている、太田大八原画展に行った。しかし、その主目的は、「営業」だ。
どういうことか。
ライターの仕事というのは、とかく人との「つながり」によるものだ。「つながり」なくして仕事はあり得ない。これは主として、雑誌ライターに多く当てはまることなのだが、ノンフィクションを書くにしても、「きっかけ」は大いに役立つ。好奇心を拡げるためにもね。
顔をつなぎに行ったわけ、蓮岡店長との。
このように、日ごろから積極的に動くことは、今、既に仕事があろうとなかろうと、ライターには必須の活動だ。習慣と言ってもいい。そしてこのことが、ライターにとっては、「営業」なのである。
当たり前の話だが、「つながり」は、人と人とが直接会うことから生まれる。これは、いかにインターネットが発達しても変わらない(そもそもインターネットは、人が「出会う」場所ではない。つながりが特徴だと言われるTwitterも、その本質は、つながることにはないのだ)。
「きんだあらんど」には、半年ほど前に一度訪れたことがあり、蓮岡店長も、俺のことはちゃんと覚えていてくれた。しかし、何かある度に(何もなくても)、こまめに顔を出す、そんな習慣が、ライターには必要不可欠なのだ。
こんな風に、特に催し物のある時は率先して、俺はできるだけいろいろなところに顔を出す、人と会う(初めての場所も多い)。今日は、そんな、ライターとして当たり前の「営業」というものを伝えたかった。ご参考までに…(笑)
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